古典を

2016年03月08日

観音経講話 ・・

観音経講話 鎌田茂雄


を古本屋で購入。

結構いい。

ではまた。 

henzyouhiryuu at 10:18 

2015年11月13日

そういえば・・・


上記文抜粋
・・・・・・・
景公問ふ、国を治むるには何をか患ふる、晏子対ふるに社鼠猛狗を以てす【第九】

景公は晏子に問うて国を治めるには何を災禍として心配すべきか」と言った。

晏子は答えて「やしろにすむ鼠を心配します」と言った。

公は「どういうことだ」と言った。

晏子は答えて
「やしろは板を束ねてその上に壁を塗ってつくられます。鼠はそのすきまに住み着きます。鼠をいぶし出そうとしても、やしろを焼く恐れがあり、 水を注ごうとしても、やしろの壁を壊す恐れがあります。
鼠を殺すことができない理由はやしろに住んでいるためなのです。
国にもまたやしろにすむ鼠がいます。
人君の近臣です。内には己の悪を君主に隠し、外には己の権威を人民に押し付けて私利をはかります。これを誅しようとすれば、乱をなし、 また君主がこれをかばって誅することができません。これはまさにやしろの鼠です。

宋人で酒を売買する者がいて、酒器をつくるのはとても清潔で、酒屋の看板を高く掲げていました。しかし酒が売れなくて、くさって酸っぱくなりました。里人にその理由を問いました。
里人は
『あなたの狗がたけだけしいので、人が器を持って店に入り、あなたの酒を買おうとしても、狗が人をかんでいます。それが酒がくさって酸っぱくなる理由です』
と言いました。
国にもまた猛狗がいます。実権者がこれです。道徳学術のある人物や諸侯が主を求めているのに、実権者がこれにかみついています。これは国の猛狗です。
近臣は社鼠であり、実権者が猛狗であるならば、どうして主はおおわれないことがありましょうか。どうして国が災禍なくおられましょうか」

と言った。



・・・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり

マスコミや官僚・学者は、偉い人。大企業の経営者も「偉い人」なのだろうか。

社のネズミや、猛犬にすぎないのが腐るほどいるのではないのか。


お読みくださりありがとうございます。


henzyouhiryuu at 19:40 

2015年10月13日

易の言葉 天地否 より

易 天地否


上記文抜粋
・・・・・・・・

休否。大人吉。基亡基亡。繋于苞桑。

(ひをきゅうす。たいじんはきち。それほろびんそれほろびんとす。ほうそうにつなぐ。)


・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり


まさに、ピンチこそ、チャンス。

それに真摯に向き合えば、逆転大勝利。

この爻が変わると、火地晋 「ライジンクサン」になりますし。


でも真摯に向き合わないと、滅びます。



お読みくださりありがとうございます。


henzyouhiryuu at 11:24 

2015年08月24日

経済的合理性って、本当?

荘子    より

上記文抜粋
・・・・・・・・・

 恵子が荘子に向っていった「あなたの話は現実離れして実際の役には立ちませんね」。

荘子は答えた
「役に立たない無用ということが分かってこそ、初めて有用についてかたることが出来るのです。

大地は何処までも広大だが、人間が使って役に立つのは足で踏むその大きさだけです。

しかしそうだからといって、足の寸法に合わせた土地を残して、

周囲を黄泉に届くまで掘り下げたとしたら、人はそれでもその土地を役に立つ有用な土地だとするでしょうか」。恵子「それじゃ役に立たないでしょう」。

荘子は言った

「してみると、役に立たない無用に見えるものが実は役に立つ働きをしていることが、はっきりしたでしょう」。



・・・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり



ネオコンの「経済合理性」に、日本の阿呆財界人が飛びつき、田舎の土豪劣紳が、庶民をいびり倒している。

でも、その末に、足元に立つところも無い。

ってなこと。


お読みくださりありがとうございます。

 

henzyouhiryuu at 20:18 

2015年08月22日

どこが良妻賢母やねん。でもそうなのである・・

あまり、読まれてもなんなので、こちらに書きます。

光武帝関連日本最大のサイトより


 http://www.geocities.jp/kaysak864/liuxiu/49.htm 


上記文抜粋
・・・・・・・・・・
郭聖通と陰麗華・二つの愛の行方
 劉秀の行動の疑問点として挙がるものに、建武十七年(西暦41年)の皇后の廃位がある。皇后郭聖通を廃して陰麗華にかえたことである。
 そもそも陰麗華と劉秀が結婚するのは、陰麗華十九歳のとき。しかし最初の子どもができるのが二十四歳のとき、皇后になるのは三十七歳のときというのも不思議なことだ。


・・・・中略・・・・

陰麗華の出身と貴人への道 陰麗華は劉秀と同郷の大富豪の娘である。遠縁の親戚にあたり、ある程度面識があった。既に述べたように許嫁であったようである。
 結婚するのは更始元年(西暦23年)十九歳のときであり、平均初婚年齢が十六歳であった同時としてはやや遅い。おそらく陰麗華は十歳年上でそれほど豊かでもない劉秀との結婚に乗り気ではなかったのではないかと思われる。
 その後、劉秀は洛陽に行くとすぐに陰麗華を郷里に帰している。さらに劉秀が河北に行くと陰麗華はそのまま郷里に残り、事実上の人質となる。
 劉秀は河北で郭聖通を夫人として容れる。身の危険な陰麗華だったが、陰氏の親戚に当たる鄧奉が挙兵し、陰麗華の兄陰識がその武将となってそのまま家族を率いて鄧奉の傘下に入り、鄧奉が陰麗華を庇護することになる。
 劉秀が皇帝となり洛陽を陥落させて南に道が開けると、すぐに陰麗華を呼び二人は再会する。建武元年(西暦25年)十月のことである。このとき郭聖通と陰麗華は共に貴人となる。劉秀は陰麗華を皇后としようとするのだが、陰麗華が自分には子どもがいないからという理由で拒絶する。
 建武二年(西暦26年)六月、郭聖通が皇后に決まる。二人が再会して皇后が決まるまで半年以上も後であるのは、劉秀はこの半年ずっと陰麗華を皇后にしようと説得していたのについに果たせなかったということである。
 建武四年(西暦28年)五月、陰麗華に最初の子ども劉陽(後の明帝)ができる。場所は洛陽の宮殿ではなく、劉秀の彭寵討伐に従軍して元氏で出産したのである。人間の妊娠期間は280日であるから、受胎したのは建武三年(西暦27年)七月もしくは八月。再会してから二年近くかかっている。陰麗華は男女八人前後の子どもを生むことからこの遅さはやや不自然である。
 陰麗華の長男ができるまでに郭聖通には次男が、さらに許美人(美人とは地位の名称)という女性との間も男児が生まれている。
 こうしたことから考えると、この頃の陰麗華は劉秀を拒絶していたのではないかと考えられる。


陰麗華の拒絶と怒り
 もともと大豪族の令嬢たる陰麗華、しかも幼い頃からの知り合いである。裕福ではない劉秀との力関係は、明らかに陰麗華が劉秀より上である。「妻を娶らば陰麗華」と言われて、そんなに言うならしょうがないわね、結婚してあげましょう、といった気持ちであったろう。
 ところがいざ結婚となると、その理由は兄の謀殺された後の、身を守るための保身の謀略であったし、河北行きに連れていかなかったのも更始帝劉玄を信頼させるための政略であり、さらに離れている間に別の女性を妻とし子どもまで作ったのである。
 しかも劉秀が河北で結婚した郭聖通は、前漢の皇帝と血縁まである桁違いに巨大な豪族の娘であり、陰氏を遙かに上回る。そして劉秀自身も皇帝になって再会するのである。力関係が完全に逆転してしまっているのだ。
 陰麗華の悔しさ、腹立たしさは相当なものがあったと推測できる。半年以上も劉秀の説得を断り続け皇后の位を蹴ったのも、最初の子どもができるのが遅いのもこのためなのであろう。
 陰麗華は、ちょっとしたことでも泣く感じやすい女性であったらしい。七歳のときに亡くした父が大好きで、父のことを思い出すたび涙したという。感情が理性を圧倒するタイプの女性であるのは間違いない。子どもがいないから皇后を断ったというのは、後に説明のために劉秀が勝手に言いだしたものだろう。拒絶されていたから皇后にできなかったなどと言えるはずもない。


明帝劉陽
 ところがある時、ついに劉秀の真心が通じたのか、二人は仲直りする。最初の出産はなぜか宮殿ではなく戦場である。劉秀が妊婦を戦場に連れて行くとは考えられないから、陰麗華が劉秀の制止を無視して、離れたくないとついてきたのだと考えられる。
 劉秀が彭寵を制圧するため大軍を率いて元氏まで進軍したときのこと。建武四年五月甲申(西暦28年6月15日)、陰麗華はここ元氏にて劉陽を生んだ。



・・・・中略・・・・・・・
劉陽、字は子麗。史書によると幼くして既に聡明で叡智があり、容貌は壮麗で、下あごがふっくらしていたという。劉秀は口が大きかったと記載されるから、両親からの遺伝がはっきりわかる。
 名前が陽というのが面白い。陰麗華の姓は陰であるから、合わせると陰陽になるからである。大人になってからつける通名である字の子麗は、母の名前から一字を取っている。
 皇帝になる人物の名前の漢字は公文書で使ってはいけないというルールがあり、そのため皇太子にはよく使われる漢字の名前をつけない習慣がある。陽というありふれた名前をつけたということは、後継者として考えていなかったことを示している。劉陽は後に皇太子となると名前を荘に変更している。


・・・・・・中略・・・・


郭聖通と劉秀の関係
 陰麗華を押しのけて皇后となったのが郭聖通である。郭聖通とはどんな女性だったのか?
 郭聖通の母は郭主と呼ばれ、帝王の血筋をひき、母としての徳を備えた賢い女性であったらしい。また、郭氏は多く劉秀に取り立てられたが、それぞれ謙虚な優れた人物として知られている。このことは郭聖通もまた教養のある優れた女性であったことを思わせる。
郭聖通にも五人の男児があり、その寵愛期間のほとんどは陰麗華と重なっている。子どもの出産時期もほとんど重複しており、郭聖通から陰麗華へと交代する様子は読みとれない。何か日替わりで二人をまったく平等に待遇しようとしたのではないかとすら思わせる。二人は男児の数も同じだが、また驚くべきことに郭聖通の皇后在位期間(西暦26~41)と陰麗華の皇后在位期間(西暦42~57)も共に十六年とぴったり同じである。平等にも程がある!
 明帝の時代の記録として陰氏と郭氏はすべてにおいて平等に待遇された(禮待陰、郭,每事必均)とある。これはおそらく劉秀の方針を引き継いだものと考えられ、劉秀はすべてにおいて郭聖通と陰麗華を平等に待遇しようとしたと考えられる。
 郭聖通は政略結婚で劉秀の妻となった。兵力十万以上の勢力を持つ劉揚を味方にするための婚姻政略である。
 しかし建武二年(西暦26年)一月、郭聖通の背後勢力である劉揚は謀反により殺される。そしてその五ヶ月後、建武二年(西暦26年)六月に、郭聖通が皇后に決まる。だからもしも劉秀が郭聖通を嫌っていたのなら、このときすでに皇后にする理由はないのである。また息子だけで五人いることから、劉秀は郭聖通も好きだったことは間違いないだろう。
 歴史上の皇帝は寵愛する女性がたくさんのいることが多いが、子どもはたいてい一人か二人である。妊娠すれば飽きてしまうわけだ。
 しかし、息子だけで五人というのは、嫌いであったり興味がなかったりしてできる人数ではない。劉秀は陰麗華が一番好きだが、郭聖通も愛していたと考えねばなるまい。


・・・・・・中略・・・・


 当時の人々も皇帝劉秀と皇后郭聖通の関係がおかしくなったのは、この事件がきっかけと見ていたようだ。『後漢書』の天文志には、建武九年の七月乙丑(西暦33年8月29日)と十一月乙丑(12月27日)に、金星が軒轅の大星に重なったという記事を載せている。軒轅は後宮を示す星座であり、大星は皇后のことで、金星が大星に重なったのは皇后が勢いを失うことを示しているのだという。
 またこのとき陰麗華の性格を示す逸話がある。
 劉秀は、陰麗華の弟、陰興を侍中とし関内侯の爵を与えようとした。印綬を陰興の前に置いたとき、陰興は自分は功臣と違って戦場で功績を立てたわけではなく、その地位に値しないと受け取りを拒絶した。
 劉秀は陰興の謙譲を喜びその言葉に従ったが、陰麗華は不思議がりその理由を問うた。陰興が答えた。
「貴人は書に記すことを読まないのですか。『亢龍有悔(極まれば悔いることがある)』と言います。いったい外戚の家は謙退を知らずに苦しむものです。富貴を極めれば満足することを知らねばなりません」
 陰麗華はその言葉に感じ入ったという。
 このエピソードは陰麗華が理性の人ではないことを教えてくれる。もしも皇后の座を譲ったのが理性的に考えての判断なら、弟の謙譲の理由が理解できないはずがないからである。


・・・・・・中略・・・・・

 郭聖通の精神に問題があったと考えるべき理由は、郭聖通の不満が劉秀へ向かったことである。常識で考えれば陰麗華に向くべきであるのに、劉秀に向かったというだけでも、異常を思わせるに十分である。郭聖通は陰麗華に取られたのではなく、劉秀に裏切られたと感じていたのである。
 元々政略結婚である上に、裏切り者の一族となり、さらに皇后という地位も愛情でなく譲られたものと広く知られてしまう。さらに問題となったのは、劉秀が自分の子どもたちを、母親に関係なく全く平等に待遇していたことである。自分が皇后でありながら実際にはすべて陰麗華と対等に扱われているのは、不満だがまだ我慢できた。しかし子どもたちまで自分同様に対等なのが納得いかなかったようだ。
 

・・・・・・中略・・・・・

  だがこの事件は重大なこと生み出してしまった。
 さらに皇后廃立についての詔の内容を見てみよう。郭聖通は自分以外が生んだ子どもとうまく打ち解けたり教え育てることができなかった(不能撫順它子,訓長異室)という。陰麗華や許氏の子どもとの関係に問題が生じたということだ。
 劉秀は病み上がりであり、南陽への里帰りにあたり家庭のことを皇后郭聖通に任せただろう。おそらく郭聖通はこの南陽で、郭氏の皇子と陰氏、許氏の皇子に差を付けて見せたのではないか。劉秀はすべての子どもを全く平等に待遇していたのだが、これに不満だった郭聖通はこの機をとらえて、正嫡と庶子の差をはっきりさせようとしたのだと考えられる。
 このことが寛容な劉秀の怒りを買った。よりによって場所は南陽、ここは劉秀の郷里というだけではなく陰麗華の郷里でもあるのだ。劉秀はこの郭聖通の行為を許せないと感じたものの、郭聖通をかわいそうに思い説得を続けた。しかし郭聖通の体調や精神の異常を見て、むしろ皇后から降ろした方が郭聖通のためだと結論したのが半年後の十月。
 皇后とは、単なる皇帝の妻ではない。国母である。公的な役職でもある。皇后、貴人、美人とは法律で給与が定められた職務なのである。こうした職務は、神経をすり減らす心労の多いものであることは、英国王室や日本の皇室を考えればすぐにわかるだろう。
 このとき劉秀は郭聖通を皇后から降ろすことを決意したのである。

・・・・・・中略・・・・

陰麗華とはどのような女性であったか
 晴れて皇后となった陰麗華であるが、こちらも以前と何も変わることはなかった。
 陰麗華は七歳のときに父を亡くし、父のことを涙なしに話すことができなかったという。劉秀も九歳のときに父を亡くしており、何か心通じるものがあったかもしれない。
 劉秀の陰麗華への思いは、二つの詔に引用された『詩経』の言葉が美しいので汲古書院の『後漢書』から訳文を書いておこう。
『ともに恐れともに懼れて苦労したのは、僕と君だけ。それなのにこれから共に安んじよう楽しもうという時になって、君は僕を見捨てるのか』
『君と会えなくなってから、もう三年になる(それでも二人の気持ちは変わらない)』
 劉秀の言葉には陰麗華への思いを示すものがいくつかある。たとえば、赤眉軍を降伏させたとき、赤眉の首領たちが偉くなっても妻を換えずに軍中に連れていたことを、大逆罪すら許される善の一番目に挙げている。このころはちょうど陰麗華と劉秀の関係が冷え切っていた時期であるのが興味深い。河北に陰麗華を連れて行けなかったことを後悔してたのかもしれない。
 劉秀の女性への態度として、『古今注』の丁邯のエピソードが興味深い。丁邯が漢中太守であったとき、その妻の弟が公孫述の将軍になった。丁邯は妻を獄につなぎ、自らは冠を脱ぎ裸足になって出頭した。そのとき劉秀は次のような詔を出す。
「漢中太守の妻が南鄭の獄につながれているが、誰がその背中を洗ってくれるのであろう?牛頭を掲げて馬の干し肉を売るのは盗賊の行いだというのが孔子の言葉だ。丁邯が罪に服したのであるから、冠や靴に罪はないように、その妻まで罰する必要はない。」
 丁邯は剛直な正義の人であるので、連座の原理に厳格に従って妻を投獄したのであるが、劉秀はそれを返って怒っているのだ。劉秀は妻を大事する人を評価し、妻を粗末する人を許さないのである。また「誰がその背中を洗ってくれるのであろう」すわなち、妻の身の回りの世話は誰がするのかという言葉からは、劉秀が天性の世話好きであることを連想させる。
 また呉漢が公孫述を滅ぼし成都に放火したことを非難した言葉の中に、「家有弊帚,享之千金」がある。後に成語の敝帚自珍となった言葉であるが、この敝帚とは、古い箒、箒とは妻の象徴で、長年連れ添った妻ほどいとおしいものはないという意味をかけているのである。
 これほど劉秀にとってかけがえのない存在であった陰麗華とはどんな女性だったのか。
 陰麗華は趣味も少なく皇后になっても豪勢に遊ぶこともなかったとされ、地味な小市民的性格だったようである。面白いのは史書は陰麗華の性格について、ジョークを好まない(不喜笑謔)と記述していることである。劉秀とまるで反対ではないか。これはどういうことか。
 劉秀は極端なことや正反対のことを相手に言って人をからかい、相手がびっくりすると、冗談だよと言って笑うことが多い。耿弇、王常などたくさんの被害者がいる。おそらくこれを妻である陰麗華にもしばしば行ったのであろう。劉秀が陰麗華をからかったところ陰麗華が怒り出してしまい、「冗談だよ」とその場を収めようとしたところ、陰麗華が「冗談なんて大嫌い!」と言い切り、それが伝わったのがこの「笑謔を喜ばず」という記述を生んだのだと考えられる。
 さらに陰麗華の行動を見ると、劉秀の意志に反する行為が多く記録されている。皇后になるように言われたのに拒絶したこと、罪に問われた馬援の娘を寵愛して身辺に置いたこと、妊娠したとき強引に遠征軍に従軍してついて行って軍陣の中で出産したことなど。
 さらに父の死に言及するたび涙したことなどを考えると、陰麗華は直情的で自分が正しいと思ったことは相手が皇帝であろうと一切譲らない頑固な女性であると考えられる。
 これに少女の頃から美人として知られていたことを合計すると、陰麗華とはツンデレ美少女であるということになろう!
 後に皇后になってからも郭聖通と確執を生まず、子供たちにもそう感じさせなかったところなど、陰麗華には何か神聖なものを持っていたと感じさせる。陰麗華は死後、光烈皇后と謚(おくりな)される。歴史上初の謚を持つ女性となった。

・・・・・・・
・・・・・・・・・・
抜粋終わり



長々と引用して失礼します。


にして、本当は郭聖通のほうが、良妻賢母ではないのか?って思える。

賢母って意味では陰麗華は、確かだが、良妻となると・・

たとえば

 >最初の出産はなぜか宮殿ではなく戦場である。劉秀が妊婦を戦場に連れて行くとは考えられないから、陰麗華が劉秀の制止を無視して、離れたくないとついてきたのだと考えられる。
 劉秀が彭寵を制圧するため大軍を率いて元氏まで進軍したときのこと。建武四年五月甲申(西暦28年6月15日)、陰麗華はここ元氏にて劉陽を生んだ。


今の世の中でいうと、「単身赴任先の夫のマンションに乗り込んできて出産した」

てようなモノ。今の保守的な女性はおろか、リベラル系の人でも「おかしい!!」というだろう。

もっというと皇太子妃が、皇太子の外遊先にわざわざついていって出産したら、「狂っている!」っていうでしょう。

また

>罪に問われた馬援の娘を寵愛して身辺に置いたこと、

これも、今の世の中で社長の夫が首にした重役・役員の娘をかわいがって、手元において、息子の嫁にした。ってこと。

これも、常識はずれである。


どこが良妻?と言い得る。


さらに

 
>おそらく郭聖通はこの南陽で、郭氏の皇子と陰氏、許氏の皇子に差を付けて見せたのではないか。劉秀はすべての子どもを全く平等に待遇していたのだが、これに不満だった郭聖通はこの機をとらえて、正嫡と庶子の差をはっきりさせようとしたのだと考えられる。
>このことが寛容な劉秀の怒りを買った。


普通の権門・貴族・帝王なら、フェミニストでも、「嫡庶の別」を必ずづける。それをしないと、自分の生存中はもちろん、死後は必ず後継者争いを含めた権力闘争を起こすので、絶対に厳しくつけた。

普通は、これが子供たちを守る結果になるのだ。

そういう意味で賢明な郭聖通は、厳密にしたのだ。

日本でもフェミニスト名高い毛利元就は、妙玖の子供たち{隆元・元春・隆景・五龍}に、高齢になって生まれた他の幼い庶子のことを

「犬ころのようなもので、せめて飢え死にし無いようにしてくれたらいい」

と手紙を書いてる。


が、そんなことよりも「家族の対等・命の平等」をより上位の価値とする劉秀には、わかっていても許せなかったのだ。

が、それが逆に郭聖通を怒らせたってことだろう。

女の意地もあるだろうが、「そんなんで帝国が経営できるの?綺麗ごとだけど狂っている!!」

てな感じで。


少なくとも郭聖通は、他の帝王なら、まず確実に「良妻賢母の典型」と呼ばれる女性だろう。


では陰麗華は、彼女のあとをついで皇后になっても、平等に扱って、それでも「仲たがい・権力闘争」をさせなかった。




ともわれ、劉秀・光武帝って、当時では「異常なまでの人間の平等」を大事にした為政者で、その上に奴隷解放や検地を通じての人間の平等を、内乱を起こしても徹底した。

郭聖通や、当時の「豪族・権門」からしたら、異常者に見えるだろう。まだ郭聖通は、それは我慢できるだろうが。



そういう異常なまでの「人間の平等」を価値の上位に持つ光武帝・劉秀と連れ添い、その価値を共にし、家族を守った陰麗華って、劉秀という、当時からしたら一種の異常人にして「聖帝」のまさに良妻賢母だった。ってことかもしれない。




にしても、良妻賢母って、なにでしょうかね。


郭聖通など、どう考えても普通は「良妻賢母」の典型なのに。

陰麗華って、相手が劉秀{光武帝}でないと、普通は「悪妻・わがまま」って言われるでしょうに。



ただ陰麗華が、そうはいわれても「良妻賢母」と言い得るのは


>後に皇后になってからも郭聖通と確執を生まず、子供たちにもそう感じさせなかったところなど、陰麗華には何か神聖なものを持っていたと感じさせる。


てところだろう。

旦那の取り合いというかそういうの以外は、郭聖通も、陰麗華にとっては「良い友人」だったのかも知れない。


そういう意味で、やはり陰麗華も、「命の平等」「家族の対等」を価値の上位にする、異常人にして「聖女」だったと言い得るかもしれない。


「命の平等」「家族の対等」など、この時代では釈迦か老荘くらいしか言わず、イエスが主張を始めたばかり。

それを平然と行っている女性だからね・・・





いろいろ失礼しました。


お読みくださりありがとうございます。




 
 

henzyouhiryuu at 20:32 

2015年07月28日

末世 

晏子春秋 より

上記文抜粋
・・・・・・・・・

晋の叔向問ふ、斉国は如何と、晏子対ふるに斉徳衰え、民は田氏に帰することを以てす【第十七】

晏子は晋を訪問した。叔向は晏子と宴会をし、ともに語った。叔向は「斉はいかがですか」と言った。

晏子は答えて「末世です。どうなるかわかりません。斉は田氏のものとなるやもしれません」と言った。

叔向は「どうしてですか」と言うと

晏子は
「公はその民を棄てて、民は田氏に帰しているからです。

斉には升目の標準が4つあり、豆区釜鐘といいます。四升を豆とし、 四豆を区とし、四区を釜とします。十釜で一鐘です。
しかし田氏の豆区釜はそれぞれ一単位を加えており、鐘は公用のものよりも大きいのです。田氏が治下の人民に蔵米を貸し出すときは、私家の容量の大きい鐘で量って貸し出し、 容量の少ない公用の鐘で米を徴集しています。

田氏の領内の山で伐り出した材木は、市場に出しても値を高くせず、輸送費を加えません。魚や塩やはまぐりは市場に出しても値を高くせず、浜での値と同じにしています。


公は人民の労力の三分の二を入れ、民はその三分の一で生活をしています。公の蓄えは腐ったり、虫がついたりするほどに多いのに、老幼は飢え凍えています。斉の多くの市場では、 履(普通のくつ)は安く、踊(刑で足のすじを切られた者のはくくつ)は高いのです。


人民は困窮して田氏はこれに情けをかけています。


むかし紂王は不当な罪で人民を殺し、民を殺すことが常でした。文王は商の民を慈恵し、 頼るべき主のない人を収容して憐れみました。そのため天下はこれに帰しました。


人民は個人的な好みである人に味方するのではなく、恩徳ある人に従います。
いま公室は驕暴で、田氏には慈恵があります。民を愛する父母の如く、これに帰することは自然のなりゆきです。 民心を得ようとしなくても、いやでもこれに帰します。

先祖の箕伯・直柄・虞遂・伯戯は胡公と大姫を助けて、これを斉におらせたのです」

と言った。
叔向は「わが公室と雖もまた末世なのです」と言った。・・・略・・・



・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり


その上に、放射能で庶民を追い詰めている。

日本が滅びないことなどありえようか・・・。

日本会議カルトは、日本の庶民を喰らいつつ美食し戦争ごっこ・愛国ごっこに興じている・

まあ日本国など存在するだけで、今は悪ですは。

日本人をいびり倒す日本国政府が、長く続くことなどあり得ようがないし、それを存続させようとするのは、巨悪で人道に背く行為である。

天地仏神・先祖のためにも、日本国滅亡を祈るしかない!




お読みくださりありがとうございます。

henzyouhiryuu at 13:11 

2015年07月16日

日本政府・アメリカという殺人鬼

孟子より 

上記文抜粋
・・・・・・・・
梁恵王「その辺について、もっと教えをうかがいたいのですが。」

孟子は答えた。

孟子「人を殺すのに棍棒と刀を使うのは、何か違いがあるでしょうか?」

梁恵王「同じですな。」

孟子「では、人を殺すのに刀と政治を使うのは、何か違いがあるでしょうか?」

梁恵王「同じ、、ですな。」

孟子「王の厨房にはでっかい肉があり、王の厩舎にはまるまると太った馬があり、一方で人民の顔は飢えでやつれ、野には飢えて野垂れ死にしている者がある。これは、獣をけしかけて人を食わせるというものです。

獣どうしの共食いでも、人は見ていてイヤな気がするものです。

いったい人民の親となって政治をしている君主が獣をけしかけて人を食わせる所業をやめないで、これで人民の親といえるでしょうか。

仲尼(孔子)はこう言っています、「俑(よう。人型のハニワ)を初めて作った者は、きっと子孫も絶えたであろう」と。

この意味は、実際の人間に似せた人形を土に埋めるのに用いたのを、(人間を侮辱した行為だとして)非難したのです。

人形に対してすらこれほど共感できるのに、いわんや子である人民を飢え死にさせるというのはいかがなものでしょうか?」



・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
抜粋終わり

安倍政権と奥の院・霞が関・財界。これは殺人鬼である。

即座に逮捕して処刑すべきである。

亜米利加も然り。


日本人は殺人鬼を「お上・指導者様」と仰いでいる。

滅亡は当然である。食人鬼に自分や家族を差し出しているのと同じだから。


お読みくださりありがとうございます。

henzyouhiryuu at 20:36 

2015年07月11日

孟子。 ますらおの人。

孟子 より 

 http://sorai.s502.xrea.com/website/mencius/mencius14-34.html


孟子は言う、
「大人(ここでは、権勢のある人)を説得するには、相手を軽んじるべきだ。

相手の高々とした権勢を見るな。

高さ数仭(だいたい十数m)の堂に、太さ数尺(1m前後)の榱題(しだい。屋根に横たえる梁材の先端)がどうした。

こんなもの、こちらは志を得て栄達したとしても求めはしないものだ。

一丈(約2.25m)四方にずらりとよそわれた食事に、かしずく侍女が数百人。

こんなもの、こちらは志を得て栄達したとしても求めはしないものだ。

飲めや騒げやの大宴会に、車馬を駆って狩に繰り出し、後ろに千台の車を付き従える。

こんなもの、こちらは志を得て栄達したとしても求めはしないものだ。

相手が持っているものなどは、すべて我が決してしないことばかりだ。

我にあるものは、ただいにしえの法あるのみ。我が何を畏れようか?」


 
・・・・・・・・・・抜粋終わり・・・・・・・・

孟子は、ますらおの人だ。

権威や権力など、糞喰らえ!


こういう気概がないと、政治など語ってはいけないと思う。


お読みくださりありがとうございます。

 

henzyouhiryuu at 19:22 
ギャラリー
  • 出開帳に行きました。
  • とある龍神の祀り方。
  • 関東のは方は、あまり護摩の時に・・。
  • 初弘法・2020
  • 月参りでした。 
  • 月参りを。
  • 暑い中を須磨寺に・・・
  • 遅れながら、月参りの記事。
  • 遅れながら、月参りの記事。
「Amazonライブリンク」は提供を終了しました。