2018年06月16日

復活の小田氏治。復活できない日大フェニックス。「天皇」の不在が復活を可能にした。



東洋経済 より

上記文抜粋
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教養がない人々が語る「常識を疑え論」のワナ
「イノベーションごっこ」に陥るエリートたち

日大アメフト部監督による暴行指示、財務省による森友・加計問題に関する情報操作、大手メーカーによる度重なる偽装・粉飾など、日本型組織の問題点が表面化したニュースが増えています。『武器になる哲学』の著者で、哲学科出身の外資系コンサルタントという異色の経歴を持つ山口周さんは、その根本的な原因について教養という視点から指摘しています。



日本でイノベーションが起きない根本原因
筆者がコンサルタントとして日々仕事をしていて、日本のビジネスパーソンに一番欠けていると感じるのが、「アジェンダを定める」力です。アジェンダとは「課題」のことです。なぜ「課題を定める」ことが重要かというと、これがイノベーションの起点となるからです。

今日、多くの日本企業ではイノベーションが経営課題の筆頭として取り組まれていますが、率直に言って、そのほとんどは「イノベーションごっこ」だと筆者は思っています。なぜそう言い切れるかというと、ほとんどのケースで「課題」が設定されていないからです。

すべてのイノベーションは、社会が抱えている「大きな課題」の解決によって実現されていますから、「課題設定」のないところからイノベーションは生まれません。「課題設定」というイノベーションの「魂」が抜け落ちたまま、表面的に外部からアイデアを募る仕組みやアイデアを練り上げるプロセスを整備しただけで、「オープンイノベーションをやっています」という状況ですから、これは「ごっこ」と言うしかありません。

筆者はこれまで、社会から「イノベーター」と認められている人々に数多くのインタビューを実施しましたが、そこで特徴的だったのは、そのうちの誰一人として「イノベーションを起こしてやろう」と考えていなかった、ということです。彼らは「イノベーションを起こそう」と思って仕事をしているのではなく、必ず具体的な「解決したい課題」があって仕事をしています。イノベーションの停滞が叫ばれて久しいですが、停滞の最大の原因となっているボトルネックは「アイデア」や「創造性」ではない、そもそも解きたい「課題=アジェンダ」がないということです。

そうなると「課題設定の能力」が重要だということになるわけですが、ではどうすれば「課題設定能力」を高めることができるのか? 鍵は「教養」ということになります。


イノベーションというのは、常に「これまで当たり前だったことが当たり前でなくなる」という側面を含んでいます。これまで当たり前だったこと、つまり常識が疑われることで初めてイノベーションは生み出されます。

一方で、すべての「当たり前」を疑っていたら日常生活は成り立ちません。なぜ信号の「ススメ」は青で「トマレ」は赤なのか、なぜ時計は右回りなのか、などといちいち考えていたら日常生活は破綻してしまうでしょう。ここに、よく言われる「常識を疑え」というメッセージの浅はかさがあります。

イノベーションに関する論考では、よく「常識を捨てろ」とか「常識を疑え」といった安易な指摘がなされますが、そのような指摘には「なぜ世の中に常識というものが生まれ、それが根強く動かし難いものになっているのか」という論点についての洞察がまったく欠けています。「常識を疑う」という行為には実はとてもコストがかかるわけです。一方で、イノベーションを駆動するには「常識への疑問」がどうしても必要になり、ここにパラドクスが生まれます。

結論から言えば、このパラドクスを解く鍵は1つしかありません。重要なのは、よく言われるような「常識を疑う」という態度を身につけるということではなく、「見送っていい常識」と「疑うべき常識」を見極める選球眼を持つということです。そしてこの選球眼を与えてくれるのが、空間軸・時間軸での知識の広がり=教養だということです。

自分の持っている知識と目の前の現実を比べてみて、普遍性がより低い常識、つまり「いま、ここだけで通用している常識」を浮き上がらせる。スティーブ・ジョブズは、カリグラフィーの美しさを知っていたからこそ「なぜ、コンピューターフォントはこんなにも醜いのか?」という問いを持つことができたわけですし、エルネスト・ゲバラはプラトンが示す理想国家を知っていたからこそ「なぜ世界の状況はこんなにも悲惨なのか」という問いを持つことができました。

目の前の世界を、「そういうものだ」と受け止めてあきらめるのではなく、比較相対化してみる。そうすることで浮かび上がってくる「普遍性のなさ」にこそ疑うべき常識があり、教養はそれを映し出すレンズとして働いてくれるということです。

なぜ、機長のほうが副操縦士より事故が多いのか?
この「比較相対化」のひとつとして、オランダの社会心理学者、ヘールト・ホフステードが紹介した「権力格差」というキーコンセプトを例にあげてみましょう。

皆さんもよくご存じのとおり、通常、旅客機では機長と副操縦士が職務を分担してフライトします。副操縦士から機長に昇格するためには通常でも10年程度の時間がかかり、したがって言うまでもなく、経験・技術・判断能力といった面において、機長は副操縦士より格段に優れていると考えられます。

しかし、過去の航空機事故の統計を調べると、副操縦士が操縦桿を握っている時よりも、機長が操縦桿を握っている時のほうが、はるかに墜落事故が起こりやすいことがわかっています。これは一体どういうことなのでしょうか?

この問題は、組織というものが持っている、不思議な特性が現れています。組織を「ある目的を達成するために集められた2人以上からなる集団」と定義すれば、航空機のコクピットというのは最小の組織であると考えることができます。

組織の意思決定のクオリティを高めるには「意見の表明による摩擦の表出」が重要です。誰かの行動や判断に対して、他の誰かが「それはおかしい」と思った際に、遠慮なくそれを声に出して指摘することが必要なわけです。つまり、航空機のコクピットにおいては、片方の判断や行動について、別の片方が反対意見を遠慮なく言える、ということが重要になるわけです。

さて、副操縦士が操縦桿を握っている場合、上役である機長が副操縦士の行動や判断に対して意義を唱えることはごく自然にできることだと考えられます。一方、逆のケースではどうでしょうか? 機長が操縦桿を握っている際、目下である副操縦士は機長の行動や判断に対して反対意見を唱えられるでしょうか? おそらく、なんらかの心理的抵抗を感じるはずです。そしてその心理的抵抗から、自分の懸念や意見を封殺してしまった結果が、「機長が操縦桿を握っている時のほうが、事故が起こりやすい」という統計結果に出ていると考えることができます。

上役に向かって反論する際に部下が感じる心理的な抵抗の度合いには、民族間で差があるということがわかっています。オランダの心理学者ヘールト・ホフステードは、全世界で調査を行い、この「部下が上役に対して反論する時に感じる心理的な抵抗の度合い」を数値化し、それを「権力格差指標=PDI(Power Distance Index)」として定義しました。

「部下にとって上司は近づきがたい」存在
ホフステードは、もともとマーストリヒトにあるリンブルフ大学の組織人類学および国際経営論の研究者でした。1960年代初頭において、すでに国民文化および組織文化の研究の第一人者として国際的に著名だったホフステードは、IBMからの依頼を受けて1967年から1973年の6年間にわたって研究プロジェクトを実施し、その結果IBMの各国のオフィスによって管理職と部下の仕事の仕方やコミュニケーションが大きく異なること、それが知的生産に大きな影響を与えていることを発見しました。

ホフステードは多くの項目を含む複雑な質問表をつくりあげ、長い年月のうちに各国から膨大な量のデータを回収し、さまざまな角度から「文化的風土がもたらす行動の差異」についての分析を行っています。その後の彼の論考のほとんどは、この時の研究を何らかの形でベースとしています。

具体的には、ホフステードは文化的差異に着眼するに当たって、次の6つの「次元」を定義しており、今日、これらは一般に「ホフステードの6次元」として知られています。

① Power distance index(PDI)上下関係の強さ
② Individualism(IDV)個人主義的傾向の強さ
③ Uncertainty avoidance index(UAI)不確実性回避傾向の強さ
④ Masculinity(MAS)男らしさ(女らしさ)を求める傾向の強さ
⑤ Long-term orientation(LTO)長期的視野傾向の強さ
⑥ Indulgence versus restraint(IVR)快楽的か禁欲的か


ホフステードは権力格差について「それぞれの国の制度や組織において、権力の弱い成員が、権力が不平等に分布している状態を予期し、受け入れている程度」と定義しています。


フランス   :68
日本     :54
イタリア   :50
アメリカ   :39
カナダ    :39
旧西ドイツ  :35
イギリス   :35


上記は、先進7カ国の権力格差を一覧にしたものです。これによると、イギリスは権力格差の小さい国なのですが、そうした国には特徴があります。人々の間の不平等は最小限度に抑えられる傾向にあり、権限分散の傾向が強く、部下は上司が意思決定を行う前に相談されることを期待し、特権やステータスシンボルといったものはあまり見受けられません。

これに対し権力格差の大きい国では、人々のあいだに不平等があることはむしろ望ましいと考えられており、権力弱者が支配者に依存する傾向が強く、中央集権化が進みます。

以上より、権力格差の違いは職場における上司・部下の関係性のあり方に大きく作用することになります。

端的にホフステードは「権力格差の小さいアメリカで開発された目標管理制度のような仕組みは、部下と上司が対等な立場で交渉の場を持てることを前提にして開発された技法であり、そのような場を上司も部下も居心地の悪いものと感じてしまう権力格差の大きな文化圏ではほとんど機能しないだろう」と指摘しています。

なお想像に難くないことですが、やはり日本のスコアは相対的に上位に位置しています。

ホフステードは、韓国や日本などの「権力格差の高い国」では「上司に異論を唱えることを尻込みしている社員の様子がしばしば観察されており」、「部下にとって上司は近づきがたく、面と向かって反対意見を述べることは、ほとんどありえない」と同調査の中で指摘しています。

どのような影響を及ぼすのか
さて、では権力格差の大きさは具体的にどのような影響を及ぼすのでしょうか。現在の日本の状況を考えると、2つの示唆があるように思えます。

1つ目の示唆は、コンプライアンスの問題です。組織の中で、権力を持つ人によって道義的に誤った意思決定が行われようとしている時、部下である組織の人々が「それはおかしいでしょう」と声を上げられるかどうか。ホフステードの研究結果は、わが国の人々は、他の先進諸国の人々と比較して、相対的に「声を上げることに抵抗を覚える」度合いが強いことを示唆しています。



2つ目の示唆は、イノベーションに関する問題です。科学史家のトーマス・クーンは、パラダイムシフトを起こす人物の特徴として「非常に年齢が若いか、その領域に入って日が浅い人」という点を挙げています。これはつまり、組織の中において相対的に弱い立場にある人のほうが、パラダイムシフトにつながるようなアイデアを持ちやすいということを示唆しています。したがって、そのような弱い立場にある人々が、積極的に意見を表明することで、イノベーションは加速すると考えられるわけですが、日本の権力格差は相対的に高く、組織の中で弱い立場にある人は、その声を圧殺されやすい。

以上の2つを踏まえれば、組織のリーダーは、部下からの反対意見について、それが表明されれば耳を傾けるという「消極的傾聴」の態度だけでは、不十分だということが示唆されます。より積極的に、自分に対する反対意見を、むしろ探して求めるという態度が必要なのではないでしょうか。

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抜粋終わり


酔生夢人のブログ より

上記文抜粋
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兵士は優秀だが将校は無能、という日本の伝統

スポーツライター広尾晃のブログ記事の一節である。
まったく同意である。プロ野球など、現役時代にはロクな成績も残していない人間が人脈(仲良し関係)を利用してコーチの座を手に入れ、選手に威張っている例がたくさんある。
もちろん、自分でやる能力と教える能力は別だから、現役時代はダメ選手でもコーチとしては有能という例もあるだろうが、コーチというだけで選手より偉いという態度の馬鹿もたくさんいるのである。選手が活躍するからチームの好成績もある(選手の働きがあるからコーチの給料も出る)のだ、という根本を理解せず、「コーチの地位は選手より上」と考えている阿呆は何とかならないか、と思うのだが、そういう連中に限って、球団フロント(球団幹部)に仲良しがいたりして、なかなか追放されない。

まあ、言うまでもなく、プロ野球だけの話ではない。会社組織では「何にも専務」と陰口を言われているような上級職が平社員の数倍数十倍の給与を貰ったりするのは普通の光景だ。

(以下引用)


今の日本のスポーツ界には、世界に比べて遅れている指導法を全面的に見直そうという動きが出ている。技術もさることながら、選手と指導者の関係を改めようという改革が進んでいる。その基本は、プレイヤーファーストだ。選手は指導者の子分ではなく、選手こそが主役であり、指導者はそのサポート役に過ぎないというパラダイムシフトが求められている。

しかしスポーツ界にはこの栄監督や日大アメフト部のように、そうした考え方を全く学ばず、やくざの親分のように選手を支配する指導者がたくさんいる。そういう部は強制的に選手に練習させ、試合でも勝利至上主義を徹底させるので、成果が出やすい。まさに「勝てば官軍」でこういうごろつきのような指導者が高い地位にいるのだ。

野球界にもそういう傾向はある。甲子園で実績を上げた指導者は、牛や馬のように選手をしごいて試合をさせた自分の指導法が間違っているとは夢にも思わないだろう。

なにごとによらず、日本は「上にいるもの」「既得権益の上に座っているもの」がなかなか退場しないために、進化できないでいるが、スポーツ界もその最たるものなのだ。

時の政権がそうだからでもあろうが、最近はどれだけ世間から批判されようと、メディアに騒がれようと、地位に居座ったまま動かない人間が多すぎる。
至学館大谷岡学長、栄監督、日大田中理事長など、今回の事件のおおもとにいる人間が完全に失脚しなければ、事態は改善に向けて動きださないだろう。

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抜粋終わり

なぜ、「兵士は優秀だが、将校は無能」なのか。

それは「権力格差が巨大」だから。

フランスは「革命」って思想を機能に組み込むことで、なんとか落ち着かせている。


で、日本は、
「上に刃向うな!理不尽を無条件に甘受しろ。」であるから、

>コンプライアンスの問題です。組織の中で、権力を持つ人によって道義的に誤った意思決定が行われようとしている時、部下である組織の人々が「それはおかしいでしょう」と声を上げられるかどうか。ホフステードの研究結果は、わが国の人々は、他の先進諸国の人々と比較して、相対的に「声を上げることに抵抗を覚える」度合いが強いことを示唆しています。

>そのような弱い立場にある人々が、積極的に意見を表明することで、イノベーションは加速すると考えられるわけですが、日本の権力格差は相対的に高く、組織の中で弱い立場にある人は、その声を圧殺されやすい。

てなるわけである。


少なくとも「天皇制階級システム」は、軍事以外では否定されなかった日本天皇阿呆国。


なぜ、日大フェニックスは、ああいう破たんをしたのか。

それは「ピラミッド的階層権力システム」は機能していたが、それを是正するモノは働かなかった。

参考にある人物の事績をみてみたい。

祭遵評伝 ― 棺で凱旋した儒将軍

上記文抜粋
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●祭遵の兵士統率法とは?
 祭遵は、もともと光武帝のもとで軍紀の粛清係をつとめていた。将軍としてもその軍紀の厳しさは最高であった。
 しかし、ただ厳しかっただけではない。
 祭遵は光武帝の信頼が厚く、しばしば特別に賞与を与えられていた。しかし、給与も報償もすべて兵士に与えたので、私財がまるでなかったという。
 子供がいなかったので妾を娶るように薦められても、それを断った。家のことを決して語らなかった。すべてにおいて国家のことを最優先とした。
 また、孔子の子孫を国に封じることや五経大夫を置くことを進言した。祭遵は儒に詳しく、孔子の教えを信奉していたのである。
 将軍となると、部隊長を選ぶのに儒を基準して選んだ。戦場を前にしても、部下たちとともに儒の作法に基づいて酒を飲み、音楽を演奏し、雅歌を歌い、投壺(壺に矢を投げ入れる遊び)をして遊んだ。悠然として儒者の風があったのである。
 儒はこの時代の主要な学問であるから、こうしたイベントに兵士を参加させることは、兵士の教育に熱心であったことを示している。
 孔子はかつて「民を教えずして戦わせる、これを棄てるという」と述べた。兵士を教育してから戦わせることが肝要なのである。祭遵は、孔子の用兵を行っていたのである。
 人にもし立派な振る舞いをさせたいのなら、まず立派な人物として扱い、立派な人物であるという自覚を与えることである。相手を悪人であると見なして応対すれば、相手は悪人として振る舞うし、有能な人として応対すれば有能に振る舞う──これは心理学でいうピグマリオン効果として知られているものであり、集団に対したとき明確にあらわれる効果である。
 すなわち、祭遵は兵士を立派な士人として扱うことにより、兵士に志と自覚を与えその質を高めたと考えられるのである。だからこそ、祭遵の指揮がなくとも自らの意志をもって戦うことができたのであろう。
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抜粋終わり

>将軍となると、部隊長を選ぶのに儒を基準して選んだ。戦場を前にしても、部下たちとともに儒の作法に基づいて酒を飲み、音楽を演奏し、雅歌を歌い、投壺(壺に矢を投げ入れる遊び)をして遊んだ。悠然として儒者の風があったのである。
>儒はこの時代の主要な学問であるから、こうしたイベントに兵士を参加させることは、兵士の教育に熱心であったことを示している。

>人にもし立派な振る舞いをさせたいのなら、まず立派な人物として扱い、立派な人物であるという自覚を与えることである。相手を悪人であると見なして応対すれば、相手は悪人として振る舞うし、有能な人として応対すれば有能に振る舞う──これは心理学でいうピグマリオン効果として知られているものであり、集団に対したとき明確にあらわれる効果である。
>すなわち、祭遵は兵士を立派な士人として扱うことにより、兵士に志と自覚を与えその質を高めたと考えられるのである。だからこそ、祭遵の指揮がなくとも自らの意志をもって戦うことができたのであろう。

立派な人として、上位者・指導者に認められ遇されると、それに答えようとする。

自分と同じ「儒者・義士」として扱われると、そういう風に答えたくなる。


ちょうど日本にも面白い男が居た。

小田氏治である。

参考 より  

上記文抜粋
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ちなみにこの連歌会、他家では重臣クラスしか参加できないものでしたが、小田家では身分のわけ隔てなく参加できました。この部下に対する寛容さが氏治の魅力なのかもしれません。

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抜粋終わり

ちょうど、祭遵の兵士統率法とほぼ同じなのである。

面白いことに、それに心打たれて、多くの「腕に覚えのあるもの」が仕官してくるし、領民も「小田さまでないと税は納めない」とまで言っている。

この連歌だけなく、他の多くの行動が「対等に尊重する」というスタンスだったので、この「復活力」を持っていたのである。


で、日大フェニックスは、一級の選手をいびり倒して、犯罪行為を行わせた挙句に、そのイビリを告発されて、不死鳥ならぬ死体になっているのである。



その一因は、あまりに日大は「監督が権力的に強くなり過ぎた」ってのもある。


権威・権力格差が大きくなると、

>コンプライアンスの問題です。組織の中で、権力を持つ人によって道義的に誤った意思決定が行われようとしている時、部下である組織の人々が「それはおかしいでしょう」と声を上げられる

ことは無くなる。

そうなると、過ちの是正はできなくなっていく。


>これはつまり、組織の中において相対的に弱い立場にある人のほうが、パラダイムシフトにつながるようなアイデアを持ちやすいということを示唆しています。したがって、そのような弱い立場にある人々が、積極的に意見を表明することで、イノベーションは加速する

ことはなくなり、イノベーション・革新は不可能になる。

日大フェニックスでも、篠竹監督時代の晩年あまり勝てなくなったが、それは篠竹監督が「選手と同じ風呂に入り・飯を食い」というように、水平的なあるいは平等的な行動をしていても、勝ちまくって出来上がった権威・権力が見えない壁になり、イノベーションが出来なくなっていった面も大きいと思う。
成功とそれに伴う権威が、その成功者の足かせになって行ったのであります。権力格差が拡大し、水平的な「人間の平等と尊厳」が、意図せずに失われていったてことです。



で、何故天皇制が足かせになるのか?

一つの理由は、

松岡正剛 千夜千冊  空の思想史 

上記文抜粋
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そればかりか、神の存在も自己の存在も否定した。神もなく自己もなく、世界すらない思想、それが「空の思想」である。ここを、キリスト教のように神の存在を認めたら、他のすべてのものも実在することになる。そして、そこから神を別格に扱うには、そこにキリスト教のように実在の階層をつけることになる。仏教はある時期からそれを拒否し、否定した。

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抜粋終わり

天皇だけ別格に置くことで、「平等」を実現したかもしれない。

でも厳然と「閨閥」が支配している日本。

また「天皇に近い」ほど、官憲が統制しにく。

この構造は「革命」が無い限りに、新陳代謝も是正もできない。

延々と明治からの「序列・階級秩序」「権力格差の延々とした拡大」は無くならないのである。

ので、

日本の組織の「統治」なり「コンプライアン」は機能しなくなるし、

イノベーションも「天皇型秩序の永続化」で、ことごとく潰されていく。



日本は、「天皇制」がある限りに、不死鳥のようには復活できず、ゾンビのように「植民地・占領地」として、存続しているつもりでしかないのである。


なんか上手く思ったよりまとめれなかったけど。こんな感じで。


お読みくださりありがとうございます。



henzyouhiryuu at 12:05│ 政治とか 
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