2016年08月31日

そもそも碩学の叡尊も、葬儀をしていた。 


上記文抜粋
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遺骨と遺体

曹洞宗僧侶・ネルケ無方氏の書籍に、「釈尊は僧侶が葬儀をしてはいけない、バラモンに任せろと言った」という記述がありましたが、それはたぶん、大般涅槃経を指してそう書いていると思うんですけれども、果たしてそうでしょうか。

ちょっと引っかかったので、再確認してみました。

まず、釈尊は「修行者はそれに専念して、ブッダの遺骨の崇拝に関わるな」ということをアーナンダに申し渡しています。それに対してアーナンダが、「それでは、世尊の遺体の処理について我々はどのようにすべきでしょうか」と問うています。

「我々は」です。「彼らは」ではありません。

もしアーナンダが的外れな質問をしていたとすれば、釈尊は再び「関わるな」と言うでしょうが、ここで釈尊は、「ブッダの遺体は転輪聖王の遺体の処理に準じで行え」と申し渡しています。

遺骨崇拝と、遺体の処理はここで別の事態として釈尊は述べているように読めます。

そして、遺骨崇拝は在家の者の仕事である、と。この「崇拝」は葬儀のことではないでしょう。葬儀は「遺体の処理」です。そしてここに関しては、修行者が関わるべきでない、とは言っていません。

実際に釈尊は、父王シュッドーダナの葬儀に際し、長男として棺を担いだ、という記述もどこかにあったと記憶しています。
そして釈尊の涅槃においても、マハーカッサパが「葬儀委員長」的な役回りで、儀礼を執行した形跡もありますよね。

ですから、「釈尊は僧侶が葬儀をしてはいけない、バラモンに任せろと言った」と言い切るのには、ちょっと疑問符がつきます。

また釈尊没後のかなり早い段階から、仏教僧侶の住居は都城の門外すぐのところ、つまり遺体を放置また埋葬、焼くような場所に住んでいたという最近の研究もあり、どうも遺体の処理(と供養)に関してはバラモンではなく、仏教僧侶の領分だったようです。
これは「穢れの観念」からも首肯できるところで、恐らくバラモンが遺体処理をすることはなかったと思われますし、仏教僧侶がその部分を担ったのも、歴史的事実でしょう。

ですから仏教が遺体処理を含む葬儀に関わっているのは、相当に初期の段階からであったのではないでしょうか。

このあたりの事については、近年、文献学だけでなく考古学的な視点からも新しい知見が出てきているそうです。まだこれからの分野ですし、僧侶を含め一般に認知されるには(誇張なしで)100年かかるでしょうが、楽しみではあります。


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抜粋終わり



真言律宗が、中世に絶大な支持をうけた一因は「葬儀に積極的にかかわった」から。

鎌倉新仏教は、基本的に「葬儀をする」ので、それも支持を増やした一因。

天台・真言は、官僧になると、朝廷関係の祈祷の件もあり、葬儀に関われなかった。

朝廷関係の「官僧」を辞めて、それに力を入れる層もいたそうで・・・・。その典型の一つが「高野聖」


道元くらいの碩学の叡尊が葬儀をしているのだから、まあ坊主が葬儀をするもの、間違いではないってことに思う。


みょうちくりんな「インド仏教崇拝」は、実は本当の「釈迦の仏教」を見失うことになるかもしれない。




上記文抜粋
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お寺でお葬式に手応え(1/2ページ)

2016年8月12日付 中外日報(時事展描)

寺院での葬儀を見直す動きが各地で進む中、岐阜県揖斐川町の浄土真宗本願寺派等光寺では寺院活動の活性化を目指して2月から「寺院葬」を始めた。石井法水住職(42)は「これまで3件の葬儀を行い、いずれも好評。すでに4件の予約もある。寺院葬を通して地域でのお寺の求心力を考えていきたい」と手応えを感じている。(池田圭)


地域ぐるみ、経費も半減

石井住職は父の前住職の急逝に伴って14年前に後を継いだ。前住職は兼職していたため、寺院活動には十分手が回らず、門徒らの寺との関わりも薄れていた。現住職はこれを改善しようと早朝勤行への参加の呼び掛けやヨガ教室の開講、各種のイベント開催などに取り組んできた。

寺院葬は寺院活動の活性化策の柱で、「お世話になったご門徒や地域の方々に対して、私やお寺に何ができるのか」との思いが大きい。

同町内の葬儀は近年、寺から数キロ離れた公立の斎場で行われることが多く、高齢者の多い地域住民からは「移動が不便」との声もあった。

等光寺での葬儀は原則として予約制で、門徒以外の申し込みも受け付ける。住職が生前に本人や家族から葬儀の規模などの希望を聞き、訃報を受けたら住職が提携する葬儀社に連絡。住職立ち会いの下、遺族と葬儀社で日程や荘厳などについて話し合う。棺や霊柩車の手配などの料金はそれぞれの単価を表示して会計は明瞭化している。

また、地元には葬儀の際に区会(町内会)から手伝いを出す決まりがあり、会場設営や後片付け、駐車案内、会葬者受付などを住職や坊守、区会の代表者で分担する。この結果、葬儀社からの派遣人員が減り、人件費の削減につながる。費用は近年主流の葬儀会館での葬儀と比べて半額程度(約50万円)になる。


寺業として3割が計画

2月16日に初めて営んだのは、89歳で亡くなった元総代の男性門徒の葬儀。本堂内陣の左余間に棺を安置し、約30畳の外陣に焼香台や会葬者席をしつらえた。「司会者が素人では円滑な進行に不安がある」との喪主の希望で司会は葬儀社に依頼する配慮もした。

この喪主は「仏様に見守られているような葬儀だった。いずれ母の葬儀もこの寺でやりたい。私も自分の葬儀に備えて息子を住職に紹介している」と話した。

石井住職は「遺族や葬儀社の方と話し合いながらつくっていく葬儀なのでやりがいがある。ご遺族が悲しみと向き合う場の一端を担わせていただけることが、僧侶としてありがたい」と言う。

同寺の寺院葬はまだ始まったばかりだが、「町を歩いていると住民の方にいろいろと声を掛けられることが確実に増えた」と、寺に対する関心が高まった手応えを感じている。

人材養成プログラム「未来の住職塾」の松本紹圭塾長によると近年、寺院葬に取り組む寺院は増えつつある。住職塾の受講者が提出する「寺業計画書」のうち、約3割が寺院葬を計画している。

松本氏は、葬儀に寺院が丁寧に関わることが寺檀関係の円滑な継承につながると考えている点が受講者に共通しているとし、「『家族葬』の普及など葬儀の小規模化の傾向を受けて『小規模な葬儀なら、うちの寺でも無理なくできる』と考える住職も少なくない」と説明する。

30年前から自坊での葬送に取り組む臨済宗妙心寺派神宮寺(長野県松本市)の高橋卓志住職は「誰のための葬儀なのかをはっきりさせねばならない。神宮寺では遺族にしっかり取材した上で、その家に応じた葬儀のプログラムを作り上げている。大切なのは故人や施主の思い。手間暇を惜しまないことが重要だ」と言い、さらには葬具調達の経費節減など葬儀に関わるコスト意識も求められると指摘している。


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抜粋終わり

寺院も正常化の動き?

かな・・





まあ、ほぼ備忘録程度に・・

お読みくださりありがとうございます。


henzyouhiryuu at 09:06│ 政治とか 
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