2016年06月20日

浄土教の一考察。


上記文抜粋
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真言密教にみる阿弥陀如来と他力易行

「大日経こそ、絶対他力易行」とは何なのか?

真言(しんごん)密教というと、三昧耶戒(さんまやかい)など戒律を守り、手に印契(いんげい)を結んだり真言を唱えるなどの厳しい修行を行って、この世に生かされたままで悟り(仏になる)をひらく、つまり「即身成仏(じょうぶつ)」に至ることが目的だと、一般的に思われていますね。まさに親鸞さんの説く「他力易行門」とは正反対の修行を積み重ねる「自力聖道門」の代表といってもいいでしょう。

ところが、「密教の大日経こそ、絶対他力易行なのだ」という説があると聞きました。調べていくと、高野山真言宗大僧正でもあった織田隆弘(おだ・りゅうこう)氏が主張されたということです。ここでは織田氏の考えを中心に、真言密教でいう他力易行はどういうものなのか不十分な理解かも知れませんが、みていきたいと思います。



真言宗でも阿弥陀如来さんの浄土に往ける

元来、「他力」というのは、衆生(しゅじょう:一般大衆)が西方極楽浄土に往きたいと願い、自分の行の功徳力ではとても成仏できないと悟った時、阿弥陀如来の念仏摂取不捨の本願力に出合い、自分の計らいを全て無効にし、一切を弥陀にまかせる信心を現わすものと理解しています。

空海さんの真言宗でも阿弥陀如来さんがおられ、南無阿弥陀仏と唱える(称えるではありません)と、極楽浄土に往くことができます。でも、その往き方が親鸞さんとはちょっと違います。



覚鑁上人「大日如来と阿弥陀如来は同体異名」と説く

真言宗において、阿弥陀如来の往生極楽の法門を説いたのは覚鑁(かくばん)上人(1095~1143年)といわれています。平安時代後期の人で、法然さんが10歳の時に示寂されています。

覚鑁さんは主著「五輪九字明秘密釈」で密教での本尊・大日如来(五輪)と阿弥陀如来(九字)は同体であり異名に過ぎないといいます。密教では絶対者である法身(ほっしん:真理そのもの)大日如来と自分自身は本来一体であるということで、厳しい修行によって自己の身・口・意という「三密」とを相応させることによって、仏との合一を観ずることができる、つまり自分が仏となるわけで、これを“観仏”というそうです。浄土宗では“念仏”といっていますね。



観念の仏、己心の弥陀

観仏は「観念の仏」ということで、いわゆる仏は自分の心の中にいるということになるでしょうか。阿弥陀仏であれば、「己心(こしん)の弥陀」です。つまり阿弥陀仏は極楽浄土にあるのではなく、自分の心の中にあるということになります。

覚鑁さんによれば、「己心の弥陀」になるためには大日如来の悲願を念誦(ねんじゅ)し、深く弥陀の本願を信じれば、大日如来が阿弥陀如来として自身と合一になり、西方浄土が観念の浄土としてあらわれてくるそうです。

ただ、密教では大日と弥陀が同体といっても、曼荼羅に描かれているように根源は大日如来であり、弥陀は相としてあらわれる、そして極楽浄土も、大日如来の法界宮殿である密厳浄土の周囲の一つ(庭)としてその極楽浄土があるというものです。



即身成仏としての阿弥陀仏

密教で阿弥陀如来として即身成仏になるためには、常に行者の心の作意、運心、努力が前提であって、自力難行の末での成仏なので、一般の人が極楽浄土に往きたいと願う場合には、その行者(僧)が自力難行の“秘伝”を使って阿弥陀仏を呼んで弥陀にお願いするということになります。この“秘伝”を覚鑁さんは絶対他力往生として「真言往生の秘事」といっているそうです。ここでは阿弥陀仏はまさに即身成仏としての浄土仏といえるでしょう。

ただ、相当な修行を積んだ僧でもない限り、到達しがたいかも知れません。そういった意味では「自力聖道」が欠かせません。こうした観念で往生極楽や他力往生を説くくらいだったら、法然さんや親鸞さんの教えを信じた方が無理がないような感じです。



織田氏の説く他力易行論

冒頭で紹介した織田氏は、次のように言っています。

「親鸞の念仏は、弥陀仏の方からの願であり救済である。信じる心も如来より賜るものであるから、信じることによって救われる。行いには少しも計らいがなく、罪を背負ったまま阿弥陀如来に抱かれ、そして救われたことを一層深く感謝する」

と指摘して、他力念仏の本質を語っています。



大日如来の大悲は差別なく平等に差し出されている

では、密教の即身成仏論において、どのように他力易行を説いていくのか。

織田氏は、密教の概念である“加持”に着目します。ここでいうところの「加持」とは、大日如来の衆生の苦しみを救いたいと願う“大悲”です。この大悲は大日如来さんの方から一切の衆生に差別なく平等に与えられているというのです。



如来の大悲を感謝していただく信心が最大の功徳

たとえ行者が菩提心を持ち修行に励んでいても、自身の内面を見つめる時、その多くの人は罪深く、愚味愚鈍の自分では三力成仏の尊さはわかっていても、とても実行できる器でないことを思い知らされる。修行すればする人ほど、自力無効を思い知らされる。そういった自覚に至った時、今まで追い求めていた大日如来の方から我を救わんと大悲の手を差し伸べて下さる。その如来大悲の加持力を感謝し、有難くいただいた信心が最大の功徳なのだと織田氏はいいます。

その「信心の功徳」は行者だけでなく平等に与えられているのだから、一般の衆生も如来から与えられた真言を唱え、如来からの大悲をただひたすら信じるだけでよい。その信心によって如来様が仏にしてくださるのです。ここでは我が行の力に頼む自力的な加持ではなく、煩悩のままの我が身が大日如来の大悲を受け止めるだけで仏となり、死後の成仏をはじめとする様々な苦が救われるのです。

だから「真言密教は絶対他力易行道だ」というわけであります。



現代の大乗仏教が問い直されているかも

親鸞さんの教えも「信心為本」であり、阿弥陀如来の本願を信じきるという意味で絶対他力易行道であります。ただ違いは、西方十万億仏土を過ぎたところにある極楽浄土に行って仏になるか、生きたままで仏になる(即身成仏)になることかも知れません。 

一部の密教においては、覚鑁上人の時から密厳浄土と極楽浄土の一体化が図られ、覚鑁、道範上人らの力もあり、修業を必要とする自力聖道による密教の念仏往生の体系が作りだされたようですが、現代の昭和の時代になって、密教においても親鸞さん張りの他力易行が唱えられるようになったということは、ある意味、現代社会における“大乗仏教”の意義、意味が問い直されていることの表れかも知れませんね。


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抜粋終わり


私は浄土教・浄土真宗の「絶対他力」ってのがおかしいと思っている。

>阿弥陀如来の本願を信じきるという意味で絶対他力易行道であります。

てのは、凡夫には到底できないある種の異能者にしかできない芸当なのは、そこそこ想像力があれば、わかりますよね・・・

信じるきる・・など、できずにちょこちょこっと自力をしても「ダメ」って、そりゃ、究極の「自力聖道」でもあります・・・

けど、結構親鸞さんも好きですけど・・・




上記文抜粋
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密教浄土教


密教浄土教における阿弥陀と極楽の定義について。
以下は覚鑁上人の『五輪九字秘密釈』『阿弥陀秘釈』などの理論です。
覚鑁の思想が整理されていてわかりやすいので紹介すると、まず阿弥陀如来については四重釈あります。
浅略釈は法蔵菩薩の成仏するもの。
深秘釈は大日の一門別徳の弥陀。
秘中秘釈は大日即弥陀。
秘々中釈は衆生本具の心即弥陀。
これは阿弥陀如来に四種類あるというのではなくて、実践の進展によって実現する阿弥陀如来の顕現の仕方と言うか、視点の移動というか、自覚の深まりです。
極楽については、自心胸中の極楽が基本で、いわゆる指方立相ではありません。もちろん浅略では西方浄土と説くものの、本来十方空。
また、四十八願は六道衆生それぞれが本来具足している八葉蓮華(胎蔵中台八葉院)の展開であると配当していきます。8×6=48。
その思想の当否は立場によって捉え方は違いますが、ひとくちに「浄土教」と言っても、多様なものがあるということです。法然・親鸞流、あるいは善導流がすべてではない、ということです。
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覚鑁の考え方は基本的に妥当なものだと僕自身は考えています。
自力と他力というものを、基本的には重視していない浄土教…というか、密教の立場ですから、三力の立場に立ちます。
この立場からの、法然親鸞流の浄土教への評価というか、違いは…。
あなた、海=他力と波=自力と、どっちをとりますか?
海を取るなら波は捨てなさいね、と。
自他力分離の議論は、そのくらい無茶苦茶だと思う。
海から考えるか、波から考えるか、というのが法門の別。
最終的には海波双入の自他不二しかないし、あえてどちらから入るか、なら、自己を見詰める波=自力から入るのが王道。
その自力=諸々の波や潮の絡み合う法界の力が自他を繋ぎ、無分別な真如となる。
波を考慮しない海というのは「立てられた概念的真如」で、それを報身仏というのかな、と。それはもちろん体としては「全体」だけど、相としてはある側面に過ぎない。一門別徳の阿弥陀如来がそれ。極楽浄土は場としての阿弥陀如来。
この海の体は常に不変だけど、相は様々な形で示され得る。だから阿弥陀如来じゃない、不動明王でも観音菩薩でも釈尊でも、僕でも犬でも月でも玉葱でもいい。
原理的にはそうなんだけど、実践的に玉葱では法の体が隠れすぎてて役に立たないので、密教では選仏を行います。
その選仏として、無量の寿命と光を示す阿弥陀如来は、もっとも入りやすく正面の如来だと考えるのが、秘密浄土、密教浄土教です。
その特定の仏を門として、海波双入の無分別の真如法身に入る。これを大日といい、密厳国土といい、沙婆即寂光土といい、究極的には言語道断。
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だから往生も二段階往生説。沙婆(波)→極楽(海)→密厳(海波不二)と言うのですが、これは上記の故です。
しかしあくまで海と波を分けるのは実践上の要請なので、原理的には極楽即密厳ですから、別体じゃないのは言うまでもなく、沙婆世界のほかに極楽があるわけでもない。
極楽はこの世界であり、この世界であるということは、「この私が現に関わり、私そのものであるこの世界」にほかならず、つまり心即弥陀即大日即極楽即密厳。自心胸中の極楽。大日即弥陀であり、衆生本具の心即弥陀です。波=海=海波不二ですから。
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ま、僕自身の話はもっと単純で、念誦は「波」として「海」である阿弥陀如来と対面し、入我我入して即一となるという観想をする、に尽きます。その即一した状態を我即弥陀即極楽、総じては大日即真如即密厳海会であって、三種成仏の第二段階であると。
加えて持戒菩薩行を地道に意識して、いつか日常に自利利他円満したとき、顕得成仏する、と。それだけです。そんなに難しい理屈はないです。はい。
阿弥陀如来じゃなくても、顕得成仏へのルートはほかにもありますから、選仏の上下はないですし、他宗派の方法でも一向に構いません。自由です。



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抜粋終わり



理屈的には、密教浄土教のほうが正しい。

妙好人も、この一種の密教浄土教的な、悟り・目覚めが見えるように思える。


自力といえど、様々な条件が整ってくれるという他力や、自力ができる幸運があってこその自力で、あって他力なくして存在しえない。

他力も、それを受け入れる自身の心がまえ、対応、感情という自力があってこそ。他力を受け入れるのに自力をそぎ落とすという自力の努力も不可欠です。


てことで、「自力・他力」で分ける浄土教の考えは、私は狂っていると思います。

そのような簡単なモノではないのですは・・・・



耶蘇教の連中が「貴方が信仰を得たのは・・・」というのが、胸糞悪い。


その点、浄土教・真宗は、良いと思う。

信心も、結局は、阿弥陀さんというかご縁でなったもの・・・。それを浄土教・真宗は強調する。
その辺は私も好きです。

自分だけでそれを得れるなど思い上がりもあるし、縁というか、自力とも他力ともいえないこの世の有りようを知らない狂気の話に思う。



なにか、そう、密教と浄土教の、分離されたモノが、また再び真相を見つめて、「教えの違いでなく、流派の違い」ってことで、接近してきている。

なにか流れを感じる。




お読みくださりありがとうございます。


henzyouhiryuu at 20:39│ 寺社巡礼とか 
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